山本啓睦の半生 ー 左官職人としての歩み

はじめまして、山本啓睦です。
興味を持っていただきありがとうございます。
私のこれまでの人生を、誕生から現在までのエピソードを交えてご紹介します。

1.誕生と幼少期

1967年、熊本県山鹿市に生まれる。大自然に囲まれた豊かな農家の家で、4歳までのびのびと元気に育つが、父が事業に失敗し一家は熊本を離れることに。ある日、両親に連れられて夜逃げ同然で神戸へ移住する。僕の極貧生活はここからスタートする。住まいは4畳半一間、共同キッチン・トイレ、風呂なし。幼いながらも厳しい生活の中で、強く生きる力を養い学んでいく。

2. 少年時代 ー 野球に夢中

小学生になると少年野球に没頭し、貧しさも忘れて夢中でボールを追いかける日々を送る。中学生になると、思春期の葛藤と初恋を経験。将来の夢は「プロ野球選手になり、彼女と結婚すること」その夢を追い、高校は岡山理科大学附属高校に進学。甲子園を目指し野球に打ち込むが、高校2年の時、まさかの出来事が起こる。親からの仕送りが途絶え、学費滞納により余儀なく退学することに。その後17歳で神戸に戻り、家計を支えるために働くことになる。

3. 音楽との出会い

19歳でギターと歌にはまり、音楽に目覚める。仲間と「OLD BROTHERS BAND」を結成。週末は神戸のライブハウス「チキンジョージ」で活躍し、約8年間音楽活動に没頭する。音楽は僕の人生を大きく変えてくれた。野球と同じように、情熱を持つことの大切さを学ばせてもらった。

4. 父の死と左官職人への道

24歳の冬。肌を刺すような冷たい風が吹き荒れたそんなある日、父は自ら命を絶ってしまった。
僕の人生の中で本当に辛い出来事だった。
貧しさや病に苦しみ続けた、父の人生を思い、僕は「やりたいことを後悔なくやる」「社会に貢献する」と決意した。その後、20歳の時に偶然出会った、左官の仕事に惹かれ、本格的に職人の道を歩み始める。以来35年以上、今もなお、左官に魅了され、技術を追求し続けている。

5. 阪神淡路大震災と恩師の死

1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生。僕は偶然にも前夜に彼女(現在の妻)の家に泊まっていた。住んでいたアパートが全壊し、生死を分ける体験をした。しかし、僕の師匠である親方は二次災害の火災で奥様を救おうとし、共に亡くなられたのだ。本当に辛く悲しすぎる出来事だった。僕にとってその出来事が、左官職人としての決意をさらに固める転機となった。

6. 結婚と独立

26歳の春、僕は中学時代の初恋の彼女と結婚する。バリ島で二人だけで、結婚式をあげた。
震災で皆が大変な時に、お祝いなんてとんでもないと思ったからだ。
その後、3人の娘に恵まれる。
「プロ野球選手」にはなれなかったが、「彼女(現在の妻)と結婚する!」という、もう一つの夢は叶った。

2004年(平成16年)左官屋を独立して「YAMACHIKA」を設立。
(「やまもとよしちか」の最初と最後の文字をとりYAMACHIKAとする)
多くの困難を乗り越えながらも、一つひとつの課題を新たなスタート地点と考え、道のりを歩んできた。

7. 50歳を超えて ー これからの目標

50代になり健康の大切さを実感。40代で腰痛や頸椎ヘルニアを経験し、克服するために筋トレを始め、今は以前の体の強さを取り戻すことができた。そして、左官職人として次世代への技術継承に力を入れることを決意する。こべっこランドで「左官教室」を9年間務め、新しい子供たちにも左官を伝えた。今後は先輩方から教わった伝統ある左官と、新しい未来の左官を統合させて、新たな展開に力を入れている。「楽しい・アートな左官」を目指し、日本のすばらしい文化をこれからも絶やすことのないよう、若い人たちへバトンをつないで行きたいと思っている。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
もし興味を持っていただけたら、「YAMACHIKA」にぜひお問い合わせください!